古希3ブログ

エカワ珈琲店とその周辺の出来事、エカワ珈琲店オーナーの思い付き、などなどの記事をエントリーしています。

団塊の世代やアンノン族は旅をする

2010年代に急増した外国人の日本旅行、その大半は決められた観光コースを周遊する団体旅行です。

新型コロナウィルス感染症パンデミックの前(2019年)までは、年老いた珈琲豆焙煎屋の住む和歌山市でも、団体旅行の外国人観光客が大勢やって来ていて、和歌山城やその周辺に外国人観光客が溢れていました。

f:id:ekawa:20151010082949j:plain

 

和歌山城の周りは外国人観光客であふれていた

2010年代中頃から、日本にやって来る外国人観光客が急増して、和歌山市でも、あちらこちらで外国人観光客に出会うようになっていたのですが、和歌山城の近くで珈琲商売を営んでいるエカワ珈琲店(年老いた珈琲豆焙煎屋夫婦が二人だけで営んでいる店)は何のメリットも受けていません。

団体旅行の観光客が幾ら増えても、零細生業規模の商売には何のメリットも無いと納得させられたものです。

新型コロナウィルス感染症パンデミックが収束して、和歌山市観光が活性化するのなら、団体旅行の観光客では無くて、個人旅行の観光客が増えてくれることを期待している今日この頃です。

 

団塊の世代やアンノン族は

2010年頃、年老いた珈琲豆焙煎屋は、日本人の国内旅行については、決められた観光コースを周遊する団体旅行が余り流行らなくなって行くと考えていました。

理由は、忙しく働くことから開放された団塊の世代やアンノン族は、団体旅行ではなくて旅をするはずだと考えたからです。

彼ら、彼女らは、若い頃、失恋をすればバスに乗って岬めぐりをしたり、北国行きの列車が来たら飛び乗って旅に出たり、あづさ2号に乗って信州を旅したりしていた世代です。

そして、失恋でなくても、ただ一人で旅に出て人生を振り返ったり、風にふるえる緑の草原で父や母を思いだしたり、ひとりで行くんだと言ってシベリア鉄道に乗ってヨーロッパに旅行をした世代です。

30代・40代・50代・60代と、時間が自由にならなかったから旅をしなかったわけで、忙しく働くことから開放されて、自由になる時間が多くなってくると、若い頃を思い出して旅に出ることもできるわけです。

 

外国人観光客が日本の観光シーンを

団塊世代とアンノン族ですが、日本の消費をことごとく変えて来た世代ですから、今度も、日本の観光シーンを変えてしまう可能性もあると考えていました。

しかし、団塊の世代やアンノン族が日本の観光シーンを変えてしまう前に、外国人観光客が日本の観光シーンを変えてしまっていました。

新型コロナウィルス感染症パンデミックの影響で外国人観光客の姿を見なくなって、日本人の団体旅行も消えてしまっていますが、団塊世代やアンノン族が旅をしている姿には時々出会います。

彼ら彼女らは、一人だけで旅をするのでは無くて、夫婦で、気の合う仲間同士で旅を楽しんでいるようです。

 

観光スポットの多い少ないで

これからの観光地の優劣ですが、観光スポットの多いか少ないかの勝負になる可能性が高いと考えています。

団体で観光バスに乗って、決められた観光コースを回るのではなくて、ただ何となく気の向くままに、いくつかの観光スポットに立ち寄る旅が主流になれば、必然的に観光地の在り方も変わって行くと思います。

旅行会社の観光コースに入れてもらって、観光名所の近くでお土産を販売したり食事や飲み物を提供する商売だけがメリットを受けるのではなくて、旅行会社の観光コースに入れてもらえない街中の小さなコーヒー豆自家焙煎店でも、観光客から何らかのメリットを受け取ることができるようになって行くかもしれません。

 

白鳥座61番星

今週のお題「SFといえば」

「白鳥座61番星」というタイトルの子供向けSF小説を読んだのは、昭和37年だったか38年だったか定かでないのですが、年老いた珈琲豆焙煎屋が小学5年生か小学6年生だった頃のことです。

夏休みに小学校の図書室で借りて読んだSF小説「白鳥座61番星」のタイトルを、70歳になった今も頭の中の片隅に残っています。

ストーリーをほとんど覚えていないのに、60年前に読んだ本のタイトル名を鮮明に覚えているのですから、「白鳥座61番星」というタイトルのSF小説に強い印象を覚えたのは確かだと思います。

 

作者の名前も憶えていなかったのですが、10何年か前の事、何かの拍子に「白鳥座61番星」というタイトルのSF小説の事を調べて見たくなって、インターネットで調べたことがあります。

作者は瀬川昌男さんだという方で、小松左京さんと同い年で作家としてのデビューは、瀬川昌男さんの方が数年早かったようです。

当時、インターネットで調べて、非公開でブログに書き留めていた「白鳥座61番星」のストーリーは、以下のような物語です。

 

1000年後の未来、恒星間旅行が当たり前になっている時代の話です。

人類は地球を離れて、銀河系の星々に移住しています。

織姫の太陽系の惑星が、人類が住むのに適さなくなって、12歳の少女と感情を持つロボット少年のふたりで、宇宙船に乗って白鳥座61番星の惑星アリスに向かいます。

丁度同じ頃、彦星の惑星から1艘の宇宙船が白鳥座61番星の惑星アリスに向けて出発します。この宇宙船には、10歳の少年が乗船(密航)していました。

惑星アリスでは、独裁者による圧政が敷かれていました。

12歳の少女と感情を持つロボット少年と10歳の密航少年たちは、その独裁者と戦うことになります。

物語の最後に、12歳の少女と10歳の少年は姉と弟だったとわかります。

 

10何年か前(2000年代中頃)、瀬川昌夫さんの著作「白鳥座61番星」を読みたいと思ってアマゾンで探したことがあるのですが、絶版になっていて新刊本はなく、中古本は見つけられなかったかものすごく高価だったか、どちらかで手に入れることが出来なかったのを覚えています。

公立図書館でも探したのですが、蔵書されていなかったと思います。

 

60年前に読んだだけで、「白鳥座61番星」という小説のタイトルと、少年と少女が登場するという事だけを覚えていて、他の登場人物やストーリー展開を全く覚えていないのですが、「白鳥座61番星」という1000年後の人類を描く空想科学未来小説は、2022年の現在でも違和感無く読むことができる代物だと、年老いた珈琲豆焙煎屋は推測しています。

 

それは、バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発で始まった

昭和60年(1985年)、吉田義男監督率いる阪神タイガーズが、昭和39年以来21年ぶりリーグ優勝を果たして、西武ライオンズと争った日本シリーズも制しました。

真弓・バース・掛布・岡田、それに大けがから復帰した佐野らに代表される200発打線の威力は絶大でした。ちなみに、バースは、球団初の三冠王に輝いています。

 

f:id:ekawa:20180421134827p:plain

 

この年(1985年/昭和60年)、あの痛ましい日本航空123便墜落事故が発生しています。

年老いた珈琲豆焙煎屋は脱サラ前の職場で勤務していて、その日は宿直勤務だったので、職場の宿直室でテレビを見ていて墜落事故を知りました。

この事故で、年老いた珈琲豆焙煎屋と同じ町内に住んでいる方の息子さんが亡くなっています。

阪神球団社長だった中埜肇さんも、たまたま日本航空123便に乗り合わせていて墜落事故に巻き込まれたという話をスポーツ新聞で読んだ記憶があります。

 

この事故が発生するまで連勝街道を走っていた阪神タイガーズですが、この事故が発生した日の巨人(ジャイアンツ)との試合から6連敗して首位から陥落してしまいます。

その後、結束を固めた阪神タイガーズは、リーグ優勝に向かって進んで行ったという話は有名です。

阪神タイガーズのリーグ優勝が決まったのは、10月16日です。11月2日には、西武ライオンズを破って日本シリーズでも優勝。シリーズMVPはバースでした。

 

阪神タイガーズが日本シリーズで勝利した2週間後、土曜日と日曜日を利用して、泊まり込みで職場の阪神ファン総出の祝賀会が勤務先の保養所で開催されました。

もちろん、阪神ファンだった年老いた珈琲豆焙煎屋も出席しています。

その祝賀会に、阪神ファンだけでは面白くないということで、何故か、職場の巨人ファンを何人か招待していたのを覚えています。 

何故、2日間泊まり込みで祝賀会を開催したかという理由です。

24時間誰かが働いている職場でしたから、宿直勤務、当直勤務の阪神ファンでも、どちらかの日の祝賀会に出席できるからです。

 

巷では、阪神タイガーズの応援歌「六甲おろし」が頻繁に流れていました。

そして、阪神タイガーズ優勝の経済効果がマスコミの話題となっていました。

阪神タイガーズが優勝するまでは円高不況と言われていたのですが、リーグ優勝が決まった当たりから、日本はバブル経済の時代に突入して行ったような気がします。

 

この年、電電公社が民営化されて日本電信電話(NTT)になって、2年後の1987年2月に東証に上場すると、瞬く間に、売り出し価格120万円の2倍以上に急騰しました。

抽選だったと記憶しているのですが、売り出し価格でNTT株を手に入れた人たちは、あっという間に100万円以上の受動的利益を手に入れたわけです。

ちなみに、年老いた珈琲豆焙煎屋も職場の皆と一緒に抽選に応募したのですが、残念ながら落選しました。

 

それから30数年の年月が経過しているのですが、何故か、昭和60年(1985年)の出来事は色々と覚えています。

この年から数年が経過して、年老いた珈琲豆焙煎屋は意を決して「脱サラ」しました。

「脱サラ」前の職場は、一生安泰を保証してくれている職場でしたから、思い切った冒険だったわけです。

 

1969年臨時増刊・平凡パンチ女性版、1970年アンアン登場

1970年(昭和45年)、大阪で万国博覧会が開催された年、その年の3月3日、桃の節句の日に、新しい女性雑誌「アンアン」が創刊されました。

芸能雑誌の「平凡」や若い男性向け雑誌「平凡パンチ」を発行していた平凡出版社(現、マガジンハウス)が、新しい女性向けの雑誌を創刊しました。

日本で初めて、月に2回発行する、大判で一冊まるごとグラビアの女性向け雑誌の誕生でした。

 

1969年頃の日本には、一冊まるごとグラビアで、外国のグラビア雑誌と同じような大判のグラビア雑誌を印刷する機械が存在しなかったそうです。

で、千代田グラビアという印刷会社が、大判で一冊まるごとグラビア雑誌の印刷発行に対応できる印刷機械を輸入することで、「アンアン」の創刊が可能になったと伝えられています。

 

1969年の晩秋、「臨時増刊・平凡パンチ女性版」という雑誌が書店に置かれていました。

「アンアン」創刊に先立つテスト雑誌だったわけですが、この雑誌の特集記事「急募!新女性誌スタッフ」と綴じ込み附録の「応募書」が話題になっていたのを覚えています。

 

この「新女性誌スタッフ募集」に応募してきた人たちの話題を、当時、読売新聞社が発行していた週刊誌、週刊読売が特集しています。1970年の1月か2月のことだったと思います。

相当にユニーク、個性的な人たちがスタッフ募集に応募してきたみたいです。

週刊読売の特集記事で、平凡出版社の社員の収入のすごさと待遇の良さを知って、こういう会社に就職できれば最高だろうと、うらやましさを感じた記憶が残っています。

www.ekawacoffee.xyz

 

週末はスポーツカーに乗って会社保有の箱根の保養所に繰り出して、そこで皆でパーティーを楽しんでいると記事に載っていたわけですから、1970年当時の若者にとっては、夢のまた夢の世界に存在する会社だったわけです。

1969年の晩秋に発行された「臨時増刊・平凡パンチ女性版」では、新女性誌のスタッフ募集にプラスして、「この春に創刊する新女性誌の誌名」も懸賞金30万円で募集されていました。

 

誌名募集の結果は、1970年1月発行の「臨時増刊・平凡パンチ女性版」で発表されました。

秋田県湯沢市の女子高校生考案の「アンアン」が、誌名として採用されたと報道されていたような気がします。

50音の最初の「あ」と最後の「ん」を重ね合わせて、「アンアン」としたとのことです。

 

1970年の3月3日に創刊した「アンアン」ですが、3年近くの低迷・会社のお荷物状態を経て後、平凡出版社の経営の中心を担う人気雑誌に変身していったそうです。

「アンアン」創刊から1年が経過して、同系統の女性誌「ノンノ」が集英社から創刊されます。

そして、1970年代の中ごろになると、「アンアン」や「ノンノ」を小脇にかかえた若い女性が街で目立つようになってきます。『アン・ノン族』の誕生です。

 

その『アン・ノン族』が、女性ファツションの世界や旅行の世界を変えてしまいました。

1970年には話題にもならなかった「アパレル」という言葉ですが、1970年代の中頃ともなると、至る所に「アパレル」という言葉が溢れていました。

 

女性ファッションの世界ですが、『アン・ノン族』が登場して、洋裁から既製服へと変って行ったのだと思います。

1970年代の中頃、街中では、「アパレル」や「マンションメーカー」という言葉が溢れていたわけです。

その代わり、街中から洋裁店が静かに姿を消して行ったのだと思います。

 

旅行の世界も、『アン・ノン族』の出現で大きく変ってしまいました。

京都や金沢などの古都や地方のひなびた温泉地に、若い女性が大挙してやって来るようになりました。

団体客・宴会客相手の旅館やホテルのままでは、『アン・ノン族』に見向きもされないということで、『アン・ノン族』向けに改装する旅館やホテルが続出したそうです。

 

1970年に創刊された『アンアン』ですが、2021年の現在でも発行されています。

2021年の現在は週刊で発行されていますが、1970年創刊当時は月2回の発行頻度だったような気がします。

 

 

加山雄三の若大将シリーズと「エレキの若大将」

「夜空の星」の演奏で物語が始まる『エレキの若大将』ですが、加山雄三主演の映画『若大将シリーズ』の中で一番面白いと年老いた珈琲豆焙煎屋は思っています。

でも、小生は、10数作品ある映画『若大将シリーズ』の全作品を観ているわけではありません。

中学生の頃からの加山雄三ファンですが、映画館で鑑賞したのは3作品で、後は有料テレビやビデオで観たわけです。でも、観ていない作品もあります。

エレキの若大将

エレキの若大将

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

東京オリンピックを開催した年の翌年、1965年(昭和40年)の12月に『エレキの若大将』が公開されました。

1965年(昭和40年)は、野村証券に次ぐ規模の証券会社山一証券が経営危機に陥って日銀特融で助けられたり、東証一部上場の大企業だった山陽特殊製鋼が倒産して会社更生法が適用されるなど、東京オリンピック特需の反動が出て一時的に景気が後退していた年です。

 

当時、日本にも世界的なエレキギターブームの影響が及び始めていて、時代の先端を走る若い人たちはエレキギターに興味を持ち始めていました。

若大将シリーズの売り物は、時代の数歩先を行く若者たちの風俗を描いていることですから、音楽の最先端を走っているのがエレキギター演奏ならば、『エレキの若大将』に登場する「アメリカンフットボール」は、当時最先端を走っているスポーツだったのかもしれません。

 

1965年(昭和40年)、小生は中学2年生でした。映画「若大将シリーズ」の存在も、加山雄三という名前も、エレキギターとはどういうものかも知らなかったような気がします。

『エレキの若大将』が封切られた年の翌年(1966年)、挿入歌だった「君といつまでも」が大ヒットして、加山雄三という俳優の名前と映画「若大将シリーズ」の存在を知ったと記憶しています。

 

主人公は、京南大学アメリカンフットボール部のエースで、実家のすき焼き店が景気後退の影響で倒産したのを、ヒロイン(星由里子さん演じる澄子さん)を想って作った「君のいつまでも」のレコードが大ヒットして、その収入で実家のすき焼き店を再建します。翌年(1966年)、加山雄三が歌う「君といつまでも」が大ヒットするのを予見しているようなストーリー展開となっていました。

 

ちなみに、年老いた珈琲豆焙煎屋は、「エレキの若大将」を映画館では観ていません。これまで何度か観ているのですが、すべてテレビ放映(有料テレビを含めて)されている「エレキの若大将」しか観ていません。

年老いた珈琲豆焙煎屋は、今年(2021年)の秋、70歳になります。

70歳になるのを契機として、加山雄三主演の若大将シリーズ全作品を観てみようかと考えている今日この頃です。

 

ちなみに、今(2021年5月)一番観たいと考えている若大将シリーズの映画は、次の映画です。

TVシリーズ DVD-BOX 社長になった若大将

TVシリーズ DVD-BOX 社長になった若大将

  • 発売日: 2006/11/23
  • メディア: DVD
 

 

コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee

出発(旅立ち)の時に一番似合っている飲み物、それはコーヒーなのかもしれません。

ニューヨークに出て来て、グリニッジ・ヴィレッジ周辺のフォーク・ソングを聴かせるクラブやコーヒーハウスなどで弾き語りをしていたボブデュランが、喫茶店でコーヒーを飲んでいた時に閃いて書き留めた詩にギターで即座に曲をつけて、その日の夜コーヒーハウス「フォークシティー」で披露したのが『風に吹かれて』で、その後、ピーター・ポール&マリーがカバーして世界的に大ヒット、ボブデュランが一躍有名になったという話は知られています。

 

そのボブデュランが作詞作曲した曲に、「旅立つ前にコーヒーをもう一杯・・・」と語りかける『コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee』という曲があります。

旅に出る前の旅人には、やはり、コーヒーが似合っているのだと思います。

朝起きて、仕事に行くのも出発(たびだち)ですから、やはり、コーヒーが似合っているのだと思います。

ボブデュランのデビュー当時の作品『コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee』は、コーヒーの仕事に携わる人たちの間ではよく知られていて、臼井隆一郎さんのロングセラー新書「コーヒーが廻り世界が廻るー近代市民社会の黒い血液(中公新書)」にも登場しています。 

www.ekawacoffee.work

 

ボブデュラン作詞作曲の「風に吹かれて」ですが、1970年前後から大流行する日本のフォークソングにも大きな影響を与えていると言われています。

エカワ珈琲店の店主は、1969年、高校3年生の秋の文化祭で、クラス全員で「風に吹かれて」を合唱したのを覚えています。

その頃、五木寛之さんの初エッセイ集「風に吹かれて」も愛読していました。 

 

www.ekawacoffee.xyz

直木賞を受賞した年の4月から、週刊読売に連載された五木寛之のファーストエッセイ集のタイトルも「風に吹かれて」です。

エカワ珈琲店の店主は、「風に吹かれて」という言葉で、ボブデュランと五木寛之が頭に浮かんでくる世代に属しています。

 

「コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee」は、1976年に発表された有名な歌ですが、ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞する2016年まで、その存在を忘れていました。

ボブデュランがノーベル文学賞を受賞して、久しぶりにボブディランという名前を思い出して、たまたま「ボブディラン」を検索していて「コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee」の存在を思い出しました。

 

 

欲望(紙ジャケット仕様)

欲望(紙ジャケット仕様)

 

 「コーヒーもう一杯/One More Cup Of Coffee」が収録されているアルバム『欲望』は、1976年に発売されたデュラン最大のベストセラーだとされています。

 

 

とんびの時代(1980年代)を思い出しながら・・・

10年近く前、2012年の1月14日、土曜日だったと思います。

午後9時から、重松清さん原作の小説「とんび」をドラマ化した、NHK版「とんび」の後半を、どういういきさつだったのか忘れたのですが、たまたま観ることになって、10数分も経たないうちにテレビにくぎ付けになってしまったのを覚えています。 

 

ドラマの出だしの部分の時代設定は、昭和55年でした。

面白かったので、1週間前の土曜日に放映された「とんび/前半」も観たくなって、NHKオンデマンドを利用して「とんび/前半」を観たのですが、見終わったときには、もう日付が変わっていました。

昭和55年当時、テレビ番組の録画装置は存在していましたが、まだまだ高値の花だったわけで、ましてや、たまたま見た連続ドラマが面白かったので、1週間前や2週間前に放映された部分も見てみたいと考えて、即座に見ることができる何て想像もできませんでした。 

とんび (角川文庫)

とんび (角川文庫)

  • 作者:重松 清
  • 発売日: 2012/10/01
  • メディア: Kindle版
 

 

NHK版「とんび」の前編と後編を観終わって、その日も、その翌日も余韻が残っていたので、何故か、昭和55年(1980年)と平成24年(2012年)の商品価格を比較してみたくなって、インターネットを利用して調べてみた記憶が残っています。

昭和55年の和歌山県庁周辺の外食価格も、平成24年の和歌山県庁周辺の外食価格も、ほとんど変化していません。

ファション価格は、昭和55年の価格よりも、平成24年の価格の方が相対的に安くなっています。

テレビや冷蔵庫などの家電商品も、昭和55年の価格よりも、平成24年の価格の方が安くなっています。

 

昭和55年の和歌山県庁周辺の不動産価格よりも、平成24年の和歌山県庁周辺の不動産価格の方が安くなっています。

賃貸料の価格も、不動産価格と同じで安くなっています。

昭和55年当時は、一家に一台だった自動車ですが、平成24年には、一人に一台になっています。

そして、自動車の価格については、昭和55年よりも、平成24年の価格の方が大幅に高くなっています。

 

昭和55年当時と価格が同じか安くなっている産業については、平成24年の現在、弱肉強食の時代に突入しています。

昭和55年と比較して、大幅に価格が上昇している自動車産業は、まだまだ元気で日本経済を引っ張っていました。

 

昭和55年よりも平成24年の方が、相対的に所得が増えているわけですから、生活のレベルが高くなっているのだと思います。

でも、昭和55年当時、比較的に裕福な生活を営んでいた中小零細の商売人たちですが、平成24年の現在、収入が大幅に減少していて生活レベルも低下しています。

 

漫画大好き少年だった小学生・中学生の頃(昭和33年~昭和41年)

昭和22年~昭和24年に生まれた団塊世代の小学生時代は、月刊漫画雑誌と貸本漫画が全盛だったわけですが、その後に続く世代の小学生時代には、もう週刊少年漫画雑誌が創刊されていました。

昭和26年生まれの小生ですが、小学生の頃も、中学生になってからも、漫画が大好きな少年でした。 

f:id:ekawa:20210131210418j:plain
 

小学2年生の春には、週刊少年マガジン(講談社)と週刊少年サンデー(小学館)が発刊されていて、家業の喫茶店商売が好調だった我が家では、2つの少年漫画雑誌を本屋さんから毎週配達してもらっていました。

月刊漫画雑誌も、月刊少年と月刊少年画報を毎月配達してもらっていました。小学校高学年になると、配達してもらうのも読むのも週刊少年漫画雑誌だけになっていました。

 

小学生時代に印象に残っている漫画は、赤塚不二夫の「おそ松くん」、藤子不二雄の「おばけのQ太郎」、横山光輝の「伊賀の影丸」・「鉄人28号」、手塚治虫の「鉄腕アトム」、桑田次郎の「まぼろし探偵」・「月光仮面」などがあります。

これらの漫画は、すべてテレビドラマやテレビアニメーションとして放映されていたので、それが印象に残っているのかもしれません。

 

中学生になると、漫画だけでなくて、小説も少しは読んだ記憶も微かに残っているのですが、タイトルも内容も記憶に残っていません。中学生だった小生も、やはり漫画大好き少年だったわけです。

中学生時代、最も印象に残っている漫画は、1965年~1967年にかけて週刊少年マガジンに連載されていたちばてつやの「ハリスの旋風」です。

「ハリスの旋風」については、20代の頃、単行本化されていた「ハリスの旋風」全巻を購入して読破したのを覚えています。読み終わった単行本漫画は、実家の喫茶店の本棚に置いておきました。昭和の喫茶店には、漫画単行本は必需品でした。

 

平井和正(原案・原作)と桑田次郎(作画)の「エイトマン」も、少しだけですが印象に残っています。人間の頭脳を移植したスーパーロボットが大活躍する物語で、週刊少年マガジンに連載されていて、テレビアニメーションとしても放映されていました。

中学3年生だった1966年から、「巨人の星」が少年マガジンで連載を開始したのですが、その年の何時頃から連載が始まったのか覚えていません。しかし、連載が始まった頃の事を、ただ何となく記憶しているような気もします。

連載が始まった最初の頃は、それほど印象に残るストーリーでは無かったのかもしれません。

  

青春のフォークソング | 時代の文化と触れ合うのにそれほどお金がいらなかった時代の音楽

この年齢(もうすぐ69歳です)になって、「一番好きな音楽は」と聞かれると、1970年代前半の音楽だと答えます。

フォークソングに限らず、あの時代の音楽が、身体のどこかに染み付いているわけです。

フォーク&ニューミュージック ヒットソングス~青春の詩~
 

 

青春時代と音楽、ものすごく相性が良いのだと思います。

フォーククルセダーズや吉田拓郎が歌うフォークソング、昭和49年に日本のレコード史上初めてのミリオンセラーアルバムとなった「氷の世界」、それと同じころ、昭和49年の夏から秋にかけて大ヒットした、かぐや姫が歌う「神田川」等々、もうすぐ古希という年齢に達していても鮮明に覚えています。

1970年代前半、レコードを購入して聞いていたフォークソングを思いつくままに書き出してみます。

五つの赤い風船の「遠い世界に」、はしだのりひことクライマックスの「花嫁」、北山修と加藤和彦の「この素晴らしい愛をもう一度」、ジローズの「戦争を知らない子供たち」、吉田拓郎の「結婚しようよ」・「旅の宿」・「落陽」、チューリップの「心の旅」・「サボテンの花」、山本コウタローとウィークエンドの「岬めぐり」、風の「22歳の別れ」、イルカの「なごり雪」などなど。

 

文化と触れ合うのに、それほどお金のいらない時代

小生、自宅兼店舗で商売している自営業者で、日曜日以外は、朝の9時から夕方の4時過ぎまで店を開けている(2021年1月現在の営業時間)わけですから、好きな音楽でも聴きながら仕事が出来れば最高です。

しかし、昭和40年代の後半頃と違って令和の日本では、音楽著作権協会と契約を結ばず勝手に店で音楽を流すと損害賠償を請求されるということですから、エカワ珈琲店(筆者が営む自家焙煎コーヒー豆小売専門店)では音楽を流していません。

筆者の青春時代、1970年代、街角の店々には、思い思いの音楽が流れていました。現在とちがって、『音楽著作権』について寛容な時代でしたから。それに、街角で流れると宣伝になっていたわけですから。

令和の現在と違って、その時代の文化と触れ合うのにそれほどお金を必要としない時代で、私にとっての古き良き時代、それが1970年代だったと思います。

 

著作権に寛容だった時代、日本の経済・文化は発展していた

店舗営業時間中は音楽を流していないので、時々、閉店後の店内で一人ひっそりと、懐かしい青春のフォークソングを聴いたりしています。

もう一度、1970年代のように『音楽著作権』に寛容な時代がやって来てくれないだろうかと考えたりしている今日この頃です。

1950年代、1960年代の日本では、数多くの文化が無料で一般公開されていました。だから、日本の経済・文化が急速に成長できたのかもしれません。

技術・技能・知識は、モノマネから始まって熟練して行くわけですから。

 

1970年の雰囲気、当時二十歳前だった青年が感じた時代の雰囲気

1970年当時、東京六本木界隈の外食価格です。以下、赤木洋一さんの『アンアン1970(平凡社新書)』からの引用です。

1970年3月創刊の『アンアン』創刊号に掲載されていた、イラスト地図つきレストランガイドの記事のごく一部です。

 

外国人観光客にも人気のある鳥長はやきとり1本80円、きじやきどんぶり250円。立木義浩が推薦している。

俳優座裏の越は、おふくろの味で一杯やる店。ぞうすい320円。(関口宏推薦)

同じく俳優座並びのスイス・インはフォンデュ2000円(コシノジュンコ)。

狸穴そばの天ざる350円(宇野亜喜良)、モデルの杉本エマが「いまさらって感じですが」と推すキャンティのスパゲティは450円とある。

 

ちなみに、グラビア雑誌『アンアン』は、1冊160円でした。 

半世紀が経過した2021年になっても、まだ継続して発行されています。当時、20歳前後だったアンノン族も、今は70歳前後のシニア女性です。

anan(アンアン)2021/1/6号 No.2231[運命を拓く。/木村拓哉]
 

 

1970年3月14日・土曜日、大阪府吹田市の千里丘陵で、「大阪万博EXPO'70」が開幕しました。

一般公開は3月15日・日曜日からでした。

和歌山市から会場まで、南海電車・大阪市営地下鉄を使って2時間程度です。

 

年老いた珈琲豆焙煎屋は、高校を卒業して大学予備校通いの生活だったのですが、4月・5月と、二度ほど同級生の友人たちと見学に出かけた記憶が残っています。

「月の石」を展示しているアメリカ館などの人気パピリオンを避けて、行列の少ないパピリオンを中心に見学したものです。

そして、梅雨の時期ともなると、もう興味が無くなっていました。

 

外国では、航空機ハイジャックが、たびたび起こっていましたが、ついに、日本でもハイジャックが発生しました。

3月31日、赤軍派による日本航空のよど号ハイジャック事件です。

外国のハイジャック事件では銃が使われたのですが、よど号ハイジャック事件で使われたのは日本刀でした。

日本刀を振りかざすハイジャック犯の写真が、世界中に配信されました。

 

日活映画「ハレンチ学園」が、5月のゴールデンウィークに封切られました。

原作は、「少年ジャンプ」に連載されていた永井豪さんの漫画です。

主人公の十兵衛役は、18歳の「児島みゆき」さんでした。

 

 「ハレンチ学園」は、興行収入5億円の大ヒットだったと、当時のスポーツ新聞で読んだ記憶がありますが、この映画を観た記憶がありません。

「ハレンチ学園」はシリーズ化して、この年に何本か制作されたのですが、1作目だけが日活独自の配給で、2作目以降は、日活と大映の共同配給会社ダイニチ映配が配給しています。

 

演歌の星と呼ばれた藤圭子さんが歌う曲が、連続して大ヒットした年です。

1969年(昭和44年)の秋、『新宿の女』で歌謡界に登場した藤圭子さんは、1970年に入ってから、『生命ぎりぎり』・『女のブルース』・『圭子の夢は夜ひらく』・『命預けます』とヒット曲を連発します。

 

「石坂まさを」さんの作詞で、何となく17歳の少女の暗さを感じさせる歌でした。

1970年の日本は、高度経済成長の最終段階に入っていましたが、貧困や社会的な暗さが街のあちらこちらに存在していた時代です。

 

1970年の9月に発表された、昭和44年(1969年)の脱税業種ワースト10を紹介します。

1位が同伴旅館(今のラブホテル)、2位がトルコぶろ(今のソープランド)、3位が日本そば屋、4位が小料理屋、5位がバー、6位が書店、7位がキャバレー、8位が食堂、9位が普通旅館(駅前旅館)、10位が不動産仲介、

となっています。何となく、時代の雰囲気が感じられます。

 

21世紀の現在と違って、町の自営業者が中産階級の中核を形成していた時代でした。

30人以上の事業所を対象に調査した平均月額給与ですが、1969年の6万4300円から、1970年には7万5700円と約18%も増えています。

消費者物価も、対前年比で7.7%増加していて、経済が急速に成長していたのを数字で実感することができます。

 

藤圭子さん以外が歌って1970年に流行した曲で、覚えている曲を書き出してみました。

渚ようこさんの「京都の恋」、ベンチャーズが作曲した曲です。

山本コータローとソルティーシュガーの「走れコータロー」、美濃部東京都知事の声真似で注目を浴びました。

 

左卜全とひまわりキテイーズの「老人と子供のポルカ」と皆川おさむ少年の歌う「黒猫のタンゴ」は、ほとんどの小学校の運動会で使われた曲です。

ビートルズの「レット・イット・ビー(Let It Be)」、ビートルズ最後のシングルレコードで、日本で発売されたビートルズのシングルレコードで最大の売上となったそうです。

 

11月25日、小説家・劇作家で、戦後日本文学を代表する作家の一人である三島由紀夫さんが、自衛隊市ヶ谷駐屯地で、日本刀を使って割腹自殺したニュースが流れました。わけもわからずに、ただ呆然とテレビの映像を眺めていた記憶が残っています。

 

この年、トヨタ自動車から「セリカ」が発売されて、当時の若者たちのあこがれの自動車の一つになりました。価格は約57万円でした。

年末、12月31日、帝国劇場で行われた第12回レコード大賞は、菅原洋一さんの歌う『今日でお別れ』という曲でした。

 

年老いた珈琲豆焙煎屋はというと、地元の大学予備校に在籍していたのですが、講義に出席したのは夏頃までで、夏休みが終わってからは、ほとんど出席することもなく、年末ともなると、パチンコホールで過ごす時間が多くなっていました。

 

 

「努力しないで出世する方法」の主人公もハウトゥー本を読んで努力していた

ハリウッド映画「努力しないで出世する方法」でも、主人公は出世するためのハウツー本を参考にして、出世するための努力をしていました。

物語の世界でなら、オーディションを受けなくても、俳優養成所に通わなくても、偶然の出会いがあれば簡単に俳優になることができます。

物語の世界でなら、新しくて素晴らしい商品・サービスが登場すれば、ほとんど努力しなくても簡単に売れて行きます。

物語の世界でなら、ちょっとした頑張りだけでとんとん拍子に大学スポーツチームのヒーローになることもできます。

 

でも、現実の世界は、物語の中の世界ように簡単に物事は進行してくれません。

ほとんど努力らしい努力もしないで、ほとんど困難らしい困難に遭遇することもなくて、俳優や実業家や芸術家やスポーツ選手として成功できるのだとしたら、その人は、俳優や実業家や芸術家やスポーツ選手の仕事を選択していなかったかもしれません。
 
何も困難を感じること無く、どのような障害物も存在すること無く、そして、どのような努力も必要としないのなら、「達成感」を感じることができません。

「達成感」を感じることができなければ、それまで費やして来た時間と労力が無駄になったと感じる可能性が高くなります。

 

物語の世界での出来事は、持続不可能な世界での出来事だと昭和生まれの老人は考えています。

物事を成すにあたっての困難や障害物は、物事を成し遂げた後に感じる達成感の必要不可欠な要素ですから、私たちにとって歓迎すべきものなのだと思います。

時間と労力を費やして困難や障害を克服することで、人は初めて「達成感」を感じることができるのだと思います。

 

人は、仕事に困難な部分が存在しているから、仕事を楽しむことができるのだと思います。そして、その仕事を楽しむことができるから、その仕事を続けていけるのだと思います。

物語の世界と違って現実の世界では、物事が自分に都合の良いようには進行してくれません。だから、面白いわけです。

都合の良いようには進行してくれないので、俳優や芸術家や実業家やスポーツ選手や田舎の珈琲豆焙煎屋は、自分の仕事を続けているのだと思います。

 

日本一のホラ吹き男 [DVD]

日本一のホラ吹き男 [DVD]

  • 発売日: 2006/05/26
  • メディア: DVD
 

ちなみに、「努力しないで出世する方法」は、偶然に「努力しないで出世する方法」というハウトゥー本を読んだビル清掃員の男性が、本の教えに従うことでトントン拍子に出世して行くというストーリーの映画だったと思います。

そう言えば、植木等さん主演の東宝映画で、オリピック候補だった主人公が、ケガをしてオリンピック選手の夢破れて故郷に帰って、ご先祖の出世覚え書きをみつけて、その覚え書きの教えに従うことでトントン拍子に出世して行くというストーリーの映画があったのを覚えています。タイトルは「日本一のほら吹き男」だったと記憶しています。

 

ちなみに、「努力しないで出世する方法」も、「日本一のホラ吹き男」も、人の倍働けば、誰もがそれなりの収入を得ることができた昭和の高度経済成長の頃の映画です。

 

【電子書籍のPR】

キンドルで電子書籍をセルフ出版しています。小生、コーヒー豆の焙煎屋ですから、コーヒー豆自家焙煎店商売とコーヒー豆の焙煎・抽出について書いた電子書籍を中心に出版しています。

その中から、コーヒー豆自家焙煎店商売について書いた記事と、昭和の喫茶店商売について書いた記事を紹介させて頂きます。

 

豊田三郎さん54歳の苦難は、2002年に始まった

2009年7月18日、ニューヨークタイムズの「経済環境が日本の政治を追い込んでいる」という記事の一部分を大雑把に解釈させて頂いて、その要約記事をブログに投稿したことがあります。

その記事を、「エカワ珈琲店の出来事」に再掲載しました。

豊田三郎さんは、昭和に生まれて、昭和に青春を楽しんで、昭和に就職して、昭和に結婚した昭和の人ですから、カテゴリーは「昭和・20世紀」に分類しています。

f:id:ekawa:20201226204521j:plain

 

豊田三郎さん54歳の苦難は、7年前に始まった(2009年7月19日に投稿した記事プラスアルファー)

インターネットの翻訳機能を利用すれば

還暦間近のおじさんがインターネット全盛時代に遭遇して、時々ですが、アメリカの新聞社のサイトをのぞいてみたりして、何とか英語で書いてある文章を読解できるようになりたいものだと努力することになりました。

小生は、英語の読み・書き・会話、何れも「全くダメ」なのですが、インターネットの翻訳機能を利用すれば、アメリカの新聞社の英文サイトの一部分なら、時間をかければ、何とか読むことができて、何となく内容も理解することができたりします。 

「経済環境が日本の政治を追い込んでいる」を読みました

現在、1週間に1度くらい、アメリカの新聞社サイトの読解に挑戦しているのですが、何年か後には、それほど時間を使わずにスラスラと読めるようになりたいものだと考えたりして、そのための努力を重ねています。

そして、今日読んだのは、ニューヨークタイムズの「経済環境が日本の政治を追い込んでいる」という記事です。

>> Economy Spells Trouble for Leading Party in Japan - NYTimes.com

その記事のうち、Saburo Toyodaさんに関する部分を 、思い違いもあるかもしれませんが、勉強のため、小生流の独断と偏見で要約してみました。

経済環境が日本の政治を追い込んでいる(要約)

豊田三郎さん54歳、7年前の2002年に大手エレクトロニクス企業を早期退職、その後、営業の仕事に就くも、収入は半分以下に減少、7年間で4度転職を繰り返した後、先月、勤務先を解雇となり、現在は失業中。

大手エレクトロニクス企業に勤務していた時代、相当に満ち足りた生活を送っていたわけですが、退職後は、退社後のちょっと一杯も、家族で旅行を楽しむことも、節約節約で我慢する日々が続いていて、2人の息子たちを大学に通わせるのが精一杯という生活です。

息子の同級生には、大学の授業料を払え無くなってしまって中退する子供もいるのですから、我が家は、まだ恵まれているのかもしれないと考えています。

それでも、大手エレクトロニクス企業での勤務を続けている元同僚たちと比べると、生涯賃金も年金も、相当に少なくなります。

大手エレクトロニクス企業に勤務していた時代よりも厳しい労働条件のもと、必死になって働いているのですが、大手エレクトロニクス企業勤務の時代よりも全ての面で恵まれていないわけですから、自分の不幸・不運を容認している社会に対して憤りを感じたりもしています。

豊田三郎さんの苦難の日々は、7年前の2002年に始まったのですが、いまだに「トンネルの先に光が見えない」という状況が続いています。 

零細生業自営業者(小生)の場合は 

40歳前に脱サラした小生も、昔のサラリーマン時代の同僚と比べると、収入は相当に低くて、仕事面でも零細生業事業者の悲哀を味わっています。

豊田三郎さんと異なるのは、少しだけですが、「トンネルの先に光が見え出しはじめている」ということです。

その理由ですが、小生が、零細生業であっても自営業者だからだと考えています。

現在の多数派は、現状に満ち足りない人々

1980年代から1990年代の前半、日本では、現状に満ち足りた人々が多数派だったわけですが、21世紀に入ってからの日本では、現状に満ち足りない人々が多数派になっています。

その人の生活環境が変化すれば、その人の求めるモノも変化すると考えるのが、マーケティングの常識です。

満ち足りない人々が多数派となって、その人々が「変化」を待ち望んでいるはずだとするニューヨークタイムズの観測記事ですが、その日本社会に対する洞察力には、ただただ感心するしかありません。

7年後、2016年の豊田三郎さんは・・

還暦を越えた豊田三郎さんは、おそらく、まだ、誰かに雇われて(おそらく非正規で)働き続けているのだと思います。

もしかしたら、誰かに雇われる働き方から、自分で自分を雇う自己雇用者(自営業者)の働き方を選択して、自由に楽しく満足感のある働き方をしているのかもしれません。

ちなみに、小生が自営している自家焙煎コーヒー豆小売専門店の売上減少が始まったのも、2002年でした。

丁度その頃、経済環境の変化に伴う大手企業の仁義なき攻勢が、どの業界でも始まっていたのかもしれません。 

2016年頃のエカワ珈琲店は 

小生ですが、夫婦2人だけで、『エカワ珈琲店』という屋号の自家焙煎コーヒー豆小売専門店を営んでいます。

そのエカワ珈琲店の場合、2007年頃には、少しだけですが、「トンネルの先に光が見え出しはじめて」いました。

そして、2010年代になると、ほぼトンネルの出口付近にまで到達していて、もうすぐトンネルの外に出ることができる地点にまで来ていました。

2016年の暮れからは、公的年金を満額受給できるようになりました。

小生の場合、年金だけでは食べて行けないので働き続ける必要があるのですが、趣味が仕事になっているので、働く事を楽しんでいる今日この頃です。 

そして、2020年 

豊田三郎さんは65歳になっています。誰かに雇われて働き続けていたなら、もうそろそろ公的年金の満額受給が始まるか始まっているはずです。

公的年金を満額受給しているなら、柔軟な働き方を選択できます。おそらく、柔軟な働き方を選択しているだろうと推測します。

もしかしたら、夫婦2人、公的年金だけで何とか食べて行けるだけの収入を確保できるのかもしれません。(豊田三郎さんは真面目な人ですから、どのような状態になっていたとしても、年金保険料の支払いはしていたはずですから。)

自営業者である小生の場合、65歳になって、公的年金の満額受給が始まって、日々の暮らしが相当に楽になりました。

公的年金からの収入だけでは食べて行けませんが、自営業からの収入にプラスして公的年金という不労所得があるわけですから。

 

 

空に星があるように、今夜は踊ろう、いとしのマックス

小生、昭和50年代に社会人となり働き始めました。カラオケが登場したのも、昭和50年代だったと思います。

社会人になった頃、高度経済成長は終了していましたが、日本経済はまだまだ元気で成長街道を走り続けていて、サラリーマンの収入は毎年毎年増え続けていました。

 

小生が働いていた職場だけでなくて、どこの職場でも、月に1度くらいは、何か理由をつけての飲み会が当たり前で、1次会は飲んで食べる、2次会・3次会はカラオケスナック(orカラオケバー)で歌いまくるという塩梅でした。

小生、歌うのが苦手なのですが、絶対に1度か2度マイクを握らなければ許してもらえません。職場の飲み会ですから、演歌は年配者に譲って、若手は演歌以外を歌うことになります。でも、職場の飲み会にフォークソングは似合いません。

自選ベスト15 いつか聴いた歌 [名盤1000円]

自選ベスト15 いつか聴いた歌 [名盤1000円]

  • アーティスト:荒木一郎
  • 発売日: 2020/07/08
  • メディア: CD
 

ということで、よく歌っていたのが、荒木一郎作詞作曲の「今夜は踊ろう」と「いとしのマックス」です。どちらの曲も、小生のような歌の苦手な者でも、それほど音程を外さずに歌える曲です。

 

荒木一郎さんですが、1966年(昭和41年)、自ら作詞作曲した「空に星があるように」で歌手デビュー、そこそこ売れる(10万枚~20万枚くらい売れる)ヒット曲となります。続いて発売した「今夜は踊ろう」が大ヒットして、1966年の日本レコード大賞新人賞を授賞します。

1967年に発売した「いとしのマックス」も大ヒットして、この年のNHK紅白歌合戦に出場します。

 

荒木一郎さんが歌う「空に星があるよう」や「今夜は踊ろう」がヒットしていた1966年(昭和41年)、小生は中学3年生でしたが、その存在は知りませんでした。

高校1年生だった1967年(昭和42年)の時には、歌謡曲ベストテン番組の常連だった荒木一郎さんも、彼が歌っていた「いとしのマックス」も知っていました。

「今夜は踊ろう」は社会人になってから覚えたのですが、「いとしのマックス」は高校生の頃から口ずさんでいました。

 

60代後半で高齢者の仲間入りをしてから、時々ですが、何故か荒木一郎さん作詞作曲の歌を聞きたいと思うことがあります。

そんな時、ユーチューブを通じて「いとしのマックス」や「今夜は踊ろう」、それに「空に星があるように」など、荒木一郎さん作詞作曲の歌を聞いている今日この頃です。 最近、CDも発売されているようですが・・・。

 

過ぎた日に背を向けずに、ゆっくりと時間を感じながら

1970年前後、まだ10代だった頃の出来事から21世紀の現在(2020年)の出来事に至るまで、小生(年老いた珈琲豆焙煎屋)の周辺でおこった出来事なら、鮮明にというわけでは無いのですが、大雑把になら、ほぼ記憶に残っています。

私(年老いた珈琲豆焙煎屋)たちの20歳前後、フォーククルセダースの「帰って来たヨッパライ」に始まるフォークソング全盛の時代でした。

その頃のフォークソングですが、今(2020年)もテレビで流れています。

 

若い頃、「こんな事、30年も経てば、忘れているだろうな」と考えた出来事でも、ちゃんと記憶しています。

小生の記憶力が優れているのではなくて、普通、誰であっても、記憶しているのだと思います。久しぶりの同窓会で、昔話に花が咲くわけですから。

 

偶然に、懐かしい人と出会って、過ぎ去りし時間を懐かしむことも、50歳の半ばを過ぎた頃から、度々経験しています。

幼い頃から現在まで、同じ場所に住んで小売商売をしているわけですから、20年ぶり、30年ぶり、50年ぶりと、懐かしい人が尋ねて来てくれたりもします。

 

小学校・中学校・高等学校・大学が一緒で、大学時代は遊び友達だった友人と、社会人になってからは疎遠になっていたのですが、60代の半ば過ぎから、今度は夫婦ぐるみで付き合うようになったりもします。

そういえば、60代半ばを過ぎた当たりから、同世代の昔懐かしい人たちと出会うことが多くなって来ているような気がします。それも、男女を問わず。

 

高齢になって来て、最近、高校時代・大学時代に経験した色々なシーンが、鮮明ではなくてぼんやりとしてですが、思い出すことが多くなっているような気がします。夢にも、よく登場して来ます。

同世代の昔懐かしい人たちと出会うことが多くなっているのですが、その人たちの大半は、高校時代・大学時代に知り合った人たちです。

 

その昔、「青春とは何だ」という人気テレビドラマが放映されていました。

若き日、「青春とは何だのだろう」と自問自答したこともあります。70歳間近の高齢に到達して、やっと答えにたどり着いたようです。

小生にとっての青春とは、高校時代・大学時代に過ごした日々、それが、小生の「青春とは何だ」の答えだと考えます。

ということで、年齢を重ねて、70代間近の高齢者となって、過ぎた日に背を向けずに、過ぎし日々を思い出したりして、ゆっくりと、自分の半生の時間を感じてみるのも楽しいのでは、と考えている今日この頃です。

 

昭和45年のベストセラー青春小説「赤頭巾ちゃん気をつけて」

1970年の1月から3月にかけて、「芥川賞」を受賞したばかりの小説、『赤頭巾ちゃん気をつけて』がベストセラー街道を突っ走っていました。

当時の小生は、高校の卒業式をまじかに控えた、流行や宣伝に弱い少し軽薄なタイプの青年でしたから、新聞広告の何十万部突破という宣伝に踊らされて、『赤頭巾ちゃん気をつけて』の単行本を購入しました。

 

主人公は、当時の小生よりも1歳年上の『薫(かおる)」という青年です。時代設定は、1969年の春で、ちょうど1年前の、ある1日だけの物語です。

薫くんは、成績優秀な高校生で、東京大学を受験するつもりでした。しかし、当時、流行っていた大学紛争のあおりで、その年、東京大学の入試が中止になってしまいました。 

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

赤頭巾ちゃん気をつけて (新潮文庫)

  • 作者:庄司 薫
  • 発売日: 2012/02/27
  • メディア: 文庫
 

 

1年間、大学受験浪人をして、翌年、東京大学を受験しようか、それとも今年、他の大学を受験しようか迷っている薫青年の1日を、「ぼく」という一人称を使って描いた日記風の小説です。

この小説を読んで、それほど感動というようなものを感じた記憶は残っていません。ただ、『バカバカしさの真っ只中』という言葉が、印象に残っているだけです。

この小説の作者は庄司薫さんで、その後、ピアニストの中村紘子さんのご主人になられた方です。 

 

『赤頭巾ちゃん・・・』のあと、数年の間に、「薫くん」を主人公に、『怪傑黒頭巾』、『青ひげ』、『白鳥』という言葉を使った題名の小説を執筆しています。

『赤頭巾ちゃん気をつけて』は、東宝で映画化され、東映グループ会長(2020年春の時点)の岡田裕介さんが、主役の「薫くん」を演じていました。

赤頭巾ちゃん気をつけて

赤頭巾ちゃん気をつけて

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

それからから、30数年間が経過しています。「薫くん」が主人公の赤・黒・青・白の4作品を発表した後、現在(2017年)まで、「薫くん」が主人公の新作は発表されていません。

 

『赤頭巾ちゃん気をつけて』が発表された頃、小生は18歳でしたから、『バカバカしさの真っ只中』という言葉を、実感することができませんでした。

69歳になった今(2020年)なら、『バカバカしさの真っ只中』という言葉を、十分に実感することができます。

 

「薫くん」ですが、大学を卒業して、一流企業orエリート官僚として定年まで勤めあげて、還暦を越えて、今(2020年)は、悠々自適の生活に入っているか、まだ何かの役職に就いているか、それとも、想像とは違った人生を歩んでいるのか、現在(2020年)の彼の日常と思考に大変興味があります。