
かつて、年齢構成がピラミッド型だった時代には、店主の年齢が上がるにつれて、お客さんの数も自然と減っていくのが常だった。
年を重ねることは、商売の終わりを静かに告げる合図のようでもあった。
けれど、今は違う。
高齢化が進んだこの社会では、私の年齢が上がっても、お客さんの数はそれほど減らない。
むしろ、変化の中に、穏やかな追い風を感じることさえある。
私は、和歌山市のお城の近くで「エカワ珈琲店」という屋号のもと、自家焙煎のコーヒー豆を専門に扱う小さな店を営んでいる。
昔ながらのパパママストア、規模は零細、けれど、手間と信頼を大切にした商いだ。
主なお客さんは、私と同世代か、前後10歳ほどの方々。長年の積み重ねで築いた関係が、今も店を支えてくれている。
おかげさまで、なんとか食べていけるだけの暮らしは続けられている。
ところが、最近になって、若い世代や現役世代のお客さんが少しずつ増えてきた。
高齢のお客さんが少しずつ減っていく中で、その分を埋めるように、新しい顔ぶれが店を訪れてくれる。
不思議なことに、今の若い人たちは、年配の店主が営む個人商店に対して、あまり構えることがないように見える。
むしろ、丁寧な手仕事や、顔の見えるやりとりに価値を感じてくれているのかもしれない。
これもまた、高齢化社会のひとつの表情なのだろう。
年齢を重ねたからこそ届く言葉や味があり、それを受け取ってくれる人たちがいる。
そんな日々の中で、私は今日も焙煎機に火を入れ、豆の香りに包まれながら、静かに商いを続けている。
私にとっての高齢化社会とは、ただ年を重ねることではない。
むしろ、健康である限り、年齢の壁に縛られず、自然体で仕事を続けられる社会のことだ。
古希を迎えてから、もう4年が経った。
74歳になった今、65歳の頃と比べれば、さすがに体力の衰えは否めない。
けれど、1日数時間なら、まだまだ現役で働ける自信がある。
感覚的には、20世紀の60代前半と同じくらいの体力を保っているようにも思える。
私は、40歳を迎える少し前から、零細な自営業者としての道を歩んできた。
だから、公的年金だけでは暮らしていけない。
節約を重ねても、生活は成り立たない。働き続ける必要があるのだ。
しかも今は、身体障害者手帳1級で要介護5の妻を自宅で介護している。
以前のように自由に働けるわけではない。けれど、それでも私は、商いを続けている。
幸いなことに、今はコーヒー豆の自家焙煎がちょっとしたブームになっている。
同じように年齢を重ねた商売人たちも、それぞれのやり方で頑張っている姿を見かける。
私には、長年積み重ねてきた経験と知識、そして技術がある。
焙煎の時間を確保し、販売の工夫を凝らせば、まだまだやっていけるという手応えがある。
だからこそ、私はこの仕事を、できる限り続けていくつもりだ。
年齢を重ねることは、終わりではない。
むしろ、積み重ねたものを活かす始まりでもある。
高齢化社会の中で、私は今日も、焙煎機の前に立ち、豆の香りに包まれながら、自分のリズムで働いている。

