古希3ブログ | エカワ珈琲店の出来事

来年(2025年)は、ブログタイトルを「エカワ珈琲店の出来事」とするつもりです。

思い出の1962年(昭和37年)

昭和37年4月、『おそ松くん(作・赤塚不二夫)』の連載が週刊少年サンデーで始まりました。

小学校の5年生で、その頃、比較的裕福な家庭環境にあったエカワ珈琲店の店主は、毎週、本屋さんから「週刊少年サンデー」を配達してもらって、読んでいました。

 

おそ松くん (1) (竹書房文庫)

おそ松くん (1) (竹書房文庫)

 

 

当時の江川家には、家風呂はまだ無くて、歩いて数分の距離にあった銭湯を利用していました。

銭湯の着衣場の壁には映画のポスターが貼られていて、『キングコング対ゴジラ』や『007は殺しの番号』のポスターが貼ってあったのを何となく覚えています。

クレージーキャッツの『ニッポン無責任時代』のポスターが貼られていたのは、この年の夏でした。この頃の、銭湯の入浴料は、20円くらいでした。

 

前年(昭和36年)の12月7日、秋田県で発見されたニセ千円札は、『チ-37号』と名づけられて、春先から年末までの新聞紙面を賑わせていました。

この事件は、結局、迷宮入りになってしまいました。

 

この年(昭和37年)の夏に発生した台湾バナナのコレラ騒動、これは印象に残っています。

バナナは、昭和38年春に輸入が自由化されたのですが、当時は輸入自由化される前で、特別なときにしか食べられない高級な果物でした。

 

それが、この年の8月に台湾から門司港に入港した貨物船の乗組員17人が真性コレラ患者だったということで、神戸港で陸揚げされた1億数千万円分の台湾バナナが、自衛隊の火炎放射器で焼却処分されている映像をテレビで見たわけです。

お金を燃やしているみたいで、「もったいない」と感じながらニュース映像を見ていた記憶が残っています。

 

現在(2016年)もそうですが、当時のエカワ珈琲店の店主は、阪神タイガーズのファンでした。

それも、現在(2016年)の阪神ファン度とは比較にならないくらいの阪神ファンで、何回か甲子園球場に連れて行ってもらったのを覚えています。

 

昭和37年、藤本定義監督のもと、村山・小山という怪腕投手を擁してセリーグ優勝を成し遂げました。

日本シリーズでは、怪童と呼ばれた尾崎行雄投手を擁する東映フライヤーズに負けてしまいました。

当時の江川家は喫茶店を営んでいて、スポーツ新聞を3紙くらい買っていたので、毎朝、早く起きてスポーツ新聞を読み漁るのが日課でした。

 

昭和37年、14型白黒テレビの価格は、5万円から6万円くらいだったと記録されています。

この年の3月に、NHKのテレビ受信契約数が1000万契約を突破しています。

なお、東京都の人口が1000万人を突破したのは、この年の2月で、世界初の1000万人都市だと小学校の授業で教えられた記憶があります。

 

少年向け漫画週刊誌ですが、時の話題も掲載されていて、佐世保の造船所で建造されていた世界最大のタンカー『日章丸(13万トン)』の存在は、その少年向け漫画週刊誌で知りました。

 

5月、藤田まこと、白木みのるの『てなもんや三度笠』が、朝日放送テレビ(関西のテレビ局)で、日曜の午後6時から放映が開始されました。

スポンサーは前田製菓で、『俺がこんなに強いのも、あたり前田のクラッカー』という流行語が、この番組から生まれました。

 

 

エカワ珈琲店の店主の記憶には無いのですが、この年の7月に、堀江謙一青年が小型ヨットで太平洋を横断してアメリカのサンフランシスコに到着しています。

あのビートルズやノーベル文学賞を受賞したボブデュランがレコードデビューしたのが、この年、昭和37年だということです。

ザ・ベスト・オブ・ボブ・ディラン

ザ・ベスト・オブ・ボブ・ディラン

 
風に吹かれて

風に吹かれて

 

 

エカワ珈琲店の店主の場合、音楽が苦手でしたから、歌謡曲にはそれほど興味がなかったのですが、それでも、橋幸夫・吉永さゆりの『いつでも夢を』が、この年のレコード大賞を受賞したのを覚えています。

大晦日のNHK「紅白歌合戦」は見ていたわけですから、島倉千代子・弘田三枝子・坂本九・ザピーナツ・ジェリー藤尾・北原謙二といった歌手は覚えています。

 

 

この年の紅白歌合戦で、森繁久弥さんが「知床旅情」を歌っているのですが、残念ながら、それは記憶に残っていません。

もしかしたら、途中で眠ってしまったのかもしれません。