昭和31年、新潮社から『週刊新潮』が発売されて、それがきっかけで週刊誌を発行する出版社が続出、昭和34年3月26日の『週刊少年マガジン』創刊、4月5日の『週刊少年サンデー』創刊で、漫画雑誌の世界にも週刊化の波が訪れました。
週刊漫画雑誌第1号の『週刊少年マガジン』は、講談社から発売されました。
創刊号の表紙は、人気力士大関朝潮で、特集も「大ずもう春場所」です。
ほぼ1週間遅れで、講談社のライバル小学館から、『週刊少年サンデー』が創刊されました。
手塚治虫、寺田ヒロオ、藤子不二雄らが、漫画を執筆しています。
昭和34年春の週刊漫画雑誌創刊までは、当然、月刊漫画雑誌の天下でした。
昭和30年代前半の人気雑誌、その筆頭は、光文社から発行されていた『月刊少年』で、手塚治虫の『鉄腕アトム』、横山光輝の『鉄人28号』、堀江卓の『矢車剣之助』など、のちに映像化された人気漫画を連載していました。
当時、『月刊少年』と人気を二分していたのが、少年画報社から発行されていた『月刊少年画報』です。
こちらには、武内つなよしの『赤胴鈴之助』、桑田次郎の『まぼろし探偵』などの人気漫画が連載されていました。
昭和33年、テレビ放映が開始された国産ヒーロー第1号、『月光仮面』は、講談社発行の『少年クラブ』に連載されていました。
原作は川内康範、作画が桑田次郎です。
他に、集英社から『少年ブック』、秋田書店から『冒険王』という月刊雑誌が発行されていたのを記憶しています。
当時の子どもたちは、お金に余裕があるわけでなくて、漫画雑誌を1誌だけ購入できれば、ものすごく幸せだった時代です。
漫画雑誌の回し読みは当たり前で、貸本屋で借りることのほうが多かった時代です。
小学低学年の少年少女たちにとって、月刊漫画雑誌の魅力は、漫画だけでなくて、雑誌に付属している別冊漫画や工作付録にありました。
昭和30年代に店舗数を増加させた貸本屋も、娯楽の少ない時代の、少年少女たちの遊び場でした。
家業の喫茶店が繁盛していて、お金に不自由しない子どもだったエカワ珈琲店の店主は、『月刊少年』、『月刊少年画報』、『週刊少年マガジン』、『週刊少年サンデー』という漫画雑誌を毎号、書店から配達してもらっていました。
その頃の反動なのかもしれませんが、20歳を過ぎてからは、お金に不自由しています。
昭和34年、少年マガジン、少年サンデーと、2誌の週刊漫画雑誌が創刊されたのですが、昭和30年代は、少年サンデーの方が元気だったような記憶があります。
藤子不二雄の『おばけのQ太郎』、赤塚不二夫の『おそ松くん』、横山光輝の『伊賀の影丸』が連載されていた昭和30年代末期、発行部数が55万部に達したと記録されています。
少年少女向け週刊漫画雑誌の世界ですが、しばらくの間、少年サンデー・少年マガジンだけの時代が続き、昭和38年になって、1月に『週刊少女フレンド』が講談社から、5月に『マーガレット』が集英社から、7月に3誌めの少年漫画週刊誌『週刊少年キング』が少年画報社から発行されました。
『週刊少女フレンド』創刊当時、ちばてつや、山田英史ら男性漫画家の漫画が数多く掲載されていました。
少女フレンドに半年遅れて創刊した、集英社の『マーガレット』は、創刊号は無料、2号では読者全員にハンカチをプレゼントという、度肝を抜く宣伝手法を採用するとともに、牧美也子や水野英子ら女性漫画家の漫画を掲載して、先行の少女フレンドに対抗していました。
少年漫画雑誌の世界と違って、少女漫画雑誌の世界では、週刊漫画雑誌よりも、集英社から発行されていた『りぼん』『少女ブック』、講談社から発行されていた『なかよし』のような月刊漫画雑誌の方が、理由がわからないのですが、人気がありました。
この時代、悪書追放運動というものが存在していて、少年漫画が青少年に悪影響を与えるということで、PTAや教育関係者によって、小学校の校庭に集められて燃やされているシーンをニュースで見た記憶があります。
昭和34年頃の日本ですが、報道関係者を集めて、漫画本を燃やすシーンを報道させるというファシズムの典型のような行為がまかり通っていた時代でした。