「テレビが我が家にやって来た」、団塊の世代なら誰でも経験したことのある出来事です。
エカワ珈琲店の店主が「テレビが我が家にやって来た」を経験したのは、昭和33年(1958年)の5月頃のことで、その時代、まだまだ珍しかったテレビ受像機が、我が家に突然やって来たのを覚えています。
(Wikipedia/テレビ受像機から引用しています)
我が家というより、エカワ珈琲店の店主の母親が経営する住居兼店舗型の喫茶店に、というほうが正しいのかもしれません。
エカワ珈琲店の店主が突然と感じたのは、小学1年生で、まだ幼かったからだろうと思います。
昭和33年当時のテレビ受像機は、安くなったと言っても1台6万円くらいするわけですから、まだまだ高額で貴重な物でしたが、ある程度の収入がある中産階級の家庭ならテレビを所有できるようになっていました。
しかし、日本全体が、まだ貧しかった時代で、「テレビ購入者向けローン」というタイプの庶民向け金融商品がそれほど普及していなかった頃の話です。
普通のサラリーマンの平均月収が3万円くらいでしたから、普通のサラリーマンではテレビ受像機を購入できなかったわけです。
我が家(エカワ珈琲店の店主の家庭)は、たまたま始めた喫茶店商売が繁盛している俄か小成金ですから、格式の高いお金持ちの家庭と違って開放的な雰囲気がありました。
当時のお金持ちと言われていた人たちは先祖伝来の土地持ちの人たちで、彼らは、当時の中産階級を構成していた町工場の社長さんたちや商店経営者さんたち、それに、庶民の人たちを見下していたのだと思います。
だから、「成金」という言葉が頻繁に使われていたのだと思います。
「テレビが我が家にやって来た」その日から、夜は、近所の人たちでごった返して、昼間は、喫茶店にテレビを見にくるお客さんでごった返していました。
近所の人たちは、無料のお茶を飲んでのテレビ観賞でしたが、昼間の喫茶店のお客さんは、必ず、その頃としては高価な飲み物だったコーヒーを飲んでくれました。
それから3ヶ月後、我が家は、店舗部分に1台、自宅部分に1台と、計2台のテレビ受像機を所有していました。
テレビの普及は、非常に早いスピードで進み、我が家にテレビがやって来てから、1年か2年くらいで、近所の家すべてが、テレビ受像機を所有していました。
以上、日本が貧乏から脱出して、急速にお金持ちになりつつあった時代にエカワ珈琲店の店主周辺で起こっていた出来事です。
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