
二十代、三十代の私は、ごく普通のサラリーマンだった。
公務員として働き、収入も待遇も、世間一般の「平均的な暮らし」の中にいたと思う。
だが三十代後半、私はその道を離れた。
年功序列の果実を受け取る前に、組織の空気に馴染めず、脱サラしてしまった。
怠け者だったのかもしれないし、ただ自分の性分に正直だっただけかもしれない。
脱サラして十四年、二〇〇六年の私、― 商売の波に揺られながら
脱サラしてしばらくの間、商売は順調だった。
焙煎機の音が心地よく響き、店の前を通る人の足取りも軽く見えた。
同世代のサラリーマンよりも収入が多く、「自分の選択は間違っていなかった」と胸を張れた時期だ。
だが、商売には波がある。
その波は、時に想像以上に大きく、容赦なく押し寄せてくる。
売上はゆっくりと下降線を描き始め、気づけば二〇〇六年頃には、同世代の元同僚たちと比べても惨めなほど収入が落ち込んでいた。
脱サラ当時の年収を下回り、公租公課や借金の返済に追われる日々。
月末が近づくたび、胸の奥がざわつき、帳簿を開く手が重くなる。
「どうしてあの時、脱サラなんてしてしまったのか」
何度も何度も、同じ問いが頭の中をぐるぐると回った。
後悔は、夜になると特に大きく膨らんで、眠りを浅くした。
それでも、十五年近く積み重ねてきた珈琲の経験と技術があった。
焙煎機の前に立つと、不思議と気持ちが落ち着いた。
豆の香りに包まれていると、「まだやれるはずだ」と思えた。
「なんとかなるだろう」
そう自分に言い聞かせ、無理やり楽観的に考えながら、その日その日をしのいでいた。
未来のことを考える余裕はなかったが、目の前の焙煎だけは、いつも誠実に向き合った。
あの頃の私は、迷いながらも、確かに前へ進んでいたのだと思う。
そして十年後、二〇一五年頃の私 ― 少しずつ、暮らしが「持ち直していく」感覚
二〇一五年になると、状況は少しずつ変わっていた。
劇的な変化ではない。けれど、長い坂道を登りきったあとに、ふっと足元が平らになるような、そんな静かな変化だった。
焙煎コーヒー豆(クラフトコーヒー)の販売量は、全盛期と比べれば確かに減っていた。
しかし不思議なもので、総利益はほとんど変わらなかった。
量が減っても、商売のやり方やお客様との関係が成熟してきたのだろう。
「売上が落ちた=生活が苦しくなる」という単純な図式ではなくなっていた。
借金はまだ残っていたが、毎月の返済額は以前より軽くなっていた。
返済日が来ても、胸の奥がざわつくような感覚は薄れ、帳簿を開く手にも少し余裕が戻ってきた。
そして六十歳を迎え、公務員時代の年金を受給するようになった。
金額は決して多くはない。
それでも、毎月決まって入ってくる収入が一本増えるというのは、精神的に大きかった。
「収入の柱が一本ある」というだけで、心の中に一本の支柱が立ったような安心感があった。
贅沢ができるわけではない。
外食の回数が増えるわけでも、旅行に行けるわけでもない。
それでも、二〇〇六年頃のように、毎日が綱渡りのような切迫感は薄れていた。
「なんとか暮らせる」
その感覚が、ようやく自分の生活に戻ってきたのだ。
十年前の私は、後悔と焦りの中で、ただ必死に焙煎機の前に立っていた。
二〇一五年の私は、同じ焙煎機の前に立ちながらも、少しだけ肩の力が抜けていた。
商売の波に揉まれながらも、ようやく静かな海に出られたような、そんな心持ちだった。
サラリーマンと自営業、どちらが良かったのか
サラリーマンとしての十五年、その後の自営業者としての十五年。
どちらが良かったのかと問われれば、2015年当時の私では答えが出なかった。
サラリーマンには安定があった。
自営業には不安定さと自由があった。
ただ一つだけ確かなのは、珈琲と向き合ってきたそれまでの年月が、私の人生を形づくってきたということだ。
後悔した日もあった。
胸を張れた日もあった。
それでも、焙煎機の前に立ち、豆の香りに包まれている時間は、いつだって私を支えてくれた。
2000年代の苦しさも、いま振り返れば、すべてが「珈琲屋としての私」を作るための道のりだったのだと思っている。

