
コーヒーの世界に沈んでいく余生
私の唯一の趣味は、コーヒーと、そのコーヒーにまつわる仕事です。
今年の秋には七十五歳。後期高齢者と呼ばれる年齢になります。
そんな私が、突然ひとりになりました。
妻に先立たれ、家の中の静けさが、時に胸の奥を冷たく撫でていきます。
これから始まるのは、正真正銘「独りぼっちの老人の余生」です。
どれだけ残されているのか分からない時間。
その時間を、できることなら丸ごと「コーヒーの世界」に浸して過ごしたい――数日前から、そんな思いがふっと湧き上がるようになりました。
どれだけ残されているのか分からない時間。
それは、何か大きな決意というよりも、静かに湧き上がってくる小さな波のような感覚です。
朝、焙煎室の扉を開けたときのあの香り。
豆がはぜる音に耳を澄ませているときの、あの不思議な安心感。
妻がいた頃と同じように、コーヒーは変わらずそこにあって、私を日常へと引き戻してくれます。
気がつけば、「余生をどう生きるか」という問いに対して、コーヒーだけが静かに答えを差し出してくれているような気がしているのです。
守るべきものがなくなった今
守るべきものがなくなった今、独り身になった私は、誰かのために無理をしたり、張り合ったりする理由がなくなりました。
かつては「家族のために」と思って続けてきた仕事も、いまはただ、自分が生きていくための最低限でよいのだと感じています。
お金のことだけを考えるなら、焙煎豆の販売に集中するのが一番効率的でしょう。
しかし、私が食べていくだけなら、それほど多くを稼ぐ必要はありません。
先月(2月)と先々月(1月)は、水道光熱費を払っても月八万円ほどで暮らせました。
今月(3月)も医療費を含めて十万円以内に収まりそうです。
年金は八万円ほど。
入院さえしなければ、あと二〜三万円を補えば生活は成り立ちます。
数字を並べてみると、思っていたよりも質素に、そして静かに暮らせていることに気づきます。
妻がいた頃のように「家計を守らなければ」という緊張感もありません。
その代わり、ぽっかりと空いた時間と心の隙間を、どう埋めていくかという新しい課題が生まれました。
だからこそ、ただ「稼ぐための焙煎」だけに縛られる必要はないのです。
これからの私は、生活のためではなく、心のためにコーヒーと向き合っていけばいい。
そう思えるようになっています。
コーヒーの世界に、もっと深く
一杯のコーヒーのテイクアウト。
小さなコーヒースタンド。
焙煎見学会のような、ちょっとしたイベント。
どれも、今の店舗と焙煎室を使えば、特別な準備をしなくてもすぐに始められるものばかりです。
朝、体調が良い時間帯には、「今日からでもできるのではないか」と前向きな気持ちが湧いてきます。
焙煎室の扉を開けた瞬間のあの香りを吸い込むと、自然と身体が動き出しそうになるのです。
けれど、夕方になると現実が静かに押し寄せてきます。
体力が急にしぼんでいくような感覚があり、「今の自分には、まだ少し早いかもしれない」と思い直すこともあります。
考えてみれば、循環器のカテーテル手術からまだ一か月も経っていません。
身体が本調子でないのは当然で、無理がきかないのも当たり前のことです。
焦る必要はない、と頭では分かっているのですが、
心だけが先に走り出してしまう日もあります。
今の私にできるのは、週に二日の店頭販売と、週に三日の通販発送。
それだけでも十分に体力を使い切ってしまう日が多々あります。
それでも、焙煎した豆を手に取ってくれるお客さんがいること、注文を待ってくれている人がいることが、私の背中をそっと押してくれています。
「もう少し元気になったら、次の一歩を踏み出そう」
そんなふうに、自分に言い聞かせながら、
コーヒーの世界へとゆっくり沈んでいく準備をしているところです。
ゆっくりと、しかし確かに。
だからこそ、焦らずにいこうと思います。
これまでの人生では、いつも「やらなければならないこと」に追われてきました。
けれど今は、誰かのためではなく、自分のために歩幅を決めていいのだと、ようやく思えるようになりました。
体力と健康が少しずつ戻っていくのを確かめながら、その回復に合わせて、徐々に「コーヒーの世界」に深く沈んでいく。
無理に飛び込む必要はありません。
香りの立ち上る朝の焙煎室に立つだけで、心がふっと軽くなる日もあります。
そんな小さな一歩を積み重ねていけばいいのだと思っています。
余生をどう生きるか。
その問いは、これからも折に触れて私の前に現れるでしょう。
けれど、コーヒーの香りに包まれていると、その答えは急いで見つけるものではなく、ゆっくりと湧き上がってくるものなのだと感じます。
これからの私は、焦らず、無理をせず、ただ静かに、しかし確かに、コーヒーとともに歩いていこうと思っています。

