総合病院の循環器内科の待合室に腰を下ろすと、視界の端にあの廊下が見える。
車いす専用のトイレへと続く、あの短いようで長い廊下。
去年の夏、週に三度、妻と一緒に通った透析室へ向かう道のりだ。
タクシーを降り、車いすを押しながらエレベーターに乗り、三階で降りる。
そこからは、妻が「歩く練習をしよう」と言って、車いすから立ち上がる。
壁の手すりに手を添え、十数メートルをゆっくりと進む。
その姿を横で見守りながら、私はいつも胸の奥が熱くなった。
透析前も、透析後も、あのトイレで妻は身体の負担を整えた。
帰り道、車いすに座る妻の背中を押しながら、私たち夫婦はたわいもない話をしていた。
その四か月間は、長いようで、今思えば一瞬のようでもある。
そして今、同じ待合室で診察を待ちながら、あの廊下を眺めていると、妻と過ごした時間が走馬灯のように押し寄せてくる。
あの夏の光、病院の空気、妻の息づかい。
すべてが、まだそこにあるように感じられる。
3月11日、新しい日常へ、そっと火を入れた。
私は、妻との思い出が詰まった自家焙煎コーヒー豆の商売を再開した。
心不全の治療がひと区切りつき、「そろそろ新しい日常を探さなければ」と思ったからだ。
焙煎機の前に立つと、妻がいた頃の空気がふっとよみがえる。
豆のはぜる音、立ちのぼる香り、「今日はどんな味になるかな」と笑っていた妻の声。
けれど、店に立つ私はもう独りだ。
三十年以上続いた日常が突然途切れ、その続きがどこにも見つからないまま、異次元の世界に迷い込んだような感覚が続いている。
それでも、火を入れた豆は、確かに香りを放つ。
その香りは、過去と現在をつなぐ細い糸のようで、私はその糸を手繰り寄せながら、少しずつ、新しい日常の形を探している。
妻との日々は、忘れようとして忘れられるものではない。
むしろ、忘れなくていいのだと思う。
あの廊下に残る足音も、焙煎機の前で交わした言葉も、すべてが私の中で生き続けている。
独りになった今、世界は以前とは違う色をしている。
けれど、その色の中で、私はまた一歩ずつ歩いていくのだろう。
焙煎した豆の香りが、新しい日常の始まりをそっと知らせてくれるかもしれない。
そんな気がしている。

