
三月八日、日曜日の午前。
久しぶりに焙煎機に火を入れた。
前回、豆を焼いたのは一か月も前のことだ。
あのときは、自分の飲む分と、お供えに使う分、そしてご近所さんへのささやかな差し入れだけ。たった一回の焙煎で十分だった。
しかし昨日は違った。
営業再開のための焙煎だ。
三バッチ、合計九キロ。焙煎機の前に立つと、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
久しぶりに聞く焙煎機からの音、豆が回転するリズム、立ち上る甘い煙の香り――どれも懐かしく、そしてどこか緊張を伴っていた。
「仕事」としての焙煎は、趣味の焙煎とは違う。
温度計の針の動きに目を凝らし、豆の色づきに耳と鼻を澄ませ、数秒の判断が味を左右する。
その感覚が、三か月ぶりに自分の中へ戻ってくるのを確かめながら、ひとつひとつの工程を丁寧に進めていった。
焙煎機の前に立つ時間が、久しぶりに「仕事」としての重みを取り戻していた。
3バッチの中には、「エチオピア・モカシダモ」の三キロも含まれている。
香りを確かめながら、ああ、この豆の通信販売を再開できるところまで戻ってきたのだと、胸の奥で小さく息をついた。
残りの二バッチは、単品焙煎の「ブラジル・ダテーラ農園」と、混合焙煎の「深味のブレンド」。
昨日と今日で味を確かめ、納得がいけば「エカワ珈琲店ショッピングサイト」に並べるつもりだ。
焙煎したての豆を前に、ひとつひとつの香りを確かめる時間は、昔から変わらず好きだ。
思えば、自分も心不全で倒れた去年の12月中旬の終わりころから、三か月近く店を閉めていた。その間に妻も旅立ってしまった。
二つの大きな出来事が重なり、心も体も、しばらくは焙煎や商売どころではなかった。
それでも、こうしてまた焙煎機の前に立っている。
完全に元通りとはいかない。
年齢も、健康も、気力も、以前のような働き方を許してはくれない。
だからこそ、これからは「趣味と実益を兼ねた、気楽な商売」に形を変えていくことにした。
小さく、無理なく、続けていくための商売だ。
その分、仕入れをはじめとしたコストはどうしても高くなる。
大量仕入れはもうできない。
必要な分だけを、その都度、小分けで買う。
だから、焙煎豆の価格も、100gあたり50円から100円ほど値上げさせてもらうことにした。
それでも、丁寧に焼いた新鮮な豆を届けたいという気持ちは、昔と変わらない。
焙煎機の前に立つと、やはり自分はコーヒーが好きなのだと実感する。
この香りとともに、これからも無理のない歩幅で商売を続けていこうと思っている。

