
1週間前、妻の四十九日の法要を終え、永代供養のお墓に納骨を済ませました。
これで一区切り…のはずなのですが、心の中にはぽっかりと大きな穴が空いたままです。
脱力感という言葉では足りないほどの、深い静けさに包まれています。
妻の四十九日の法要の3日前、二か月ぶりにコーヒー豆を焙煎しました。
焙煎機の前に立った瞬間、ふと、妻が豆を煎っていた後ろ姿が瞼に浮かびました。
あの小さな背中が、真剣な眼差しで焙煎機に向かっていた姿。
豆の色づきを確かめるときの、あの丁寧な手の動き。
火加減を調整するために少し身を乗り出す仕草まで、まるで昨日のことのように思い出されました。
そして、ふわりと立ちのぼる香ばしい香りが、あの頃の空気を連れてきました。
懐かしさが胸を満たすと同時に、どうしようもない寂しさと虚しさが、静かに、でも確かに押し寄せてきたのです。
三月中旬には商売を再開しようと、少しずつ準備を始めてきました。
でも、どうしても手が止まってしまうのです。
道具を手に取っても、次に何をすればいいのか、ふとわからなくなる。
帳簿を開いても、数字の向こうにあの人の筆跡が見えるようで、思わず目を伏せてしまう。
妻と二人三脚で三十年以上続けてきたこの商売。
朝の仕込みも、焙煎のタイミングも、発送の段取りも、すべてが二人の呼吸で成り立っていました。
あの人がいない今、何をどう始めればいいのか、どこから手をつければいいのか、心の中で迷子になるような瞬間があります。
まるで、地図のない道を一人で歩き出そうとしているような、そんな心細さを感じています。
それに、私の健康状態の問題もあります。
だから、コーヒー豆自家焙煎店の営業再開の目途を、3月中旬から3月中に、もしかしたら4月にずれ込むかもしれないに変更することにしました。
年金だけでは、今までのような暮らしを続けることができません。
若い頃に勤めていた公務員時代の年金を合わせても、月にすれば八万円ほど。
家の維持費や光熱費、日々の食事に少しの交際費を加えれば、あっという間に底をついてしまいます。
だからこそ、商売を再開して、少しでも収入を得なければという現実があります。
月に十万円でも稼げれば、なんとか今のような暮らしを繋いでいける。
そう頭ではわかっているのです。
でも、「守るべきもの」がなくなってしまった今、去年までのような切迫感も、気力も、なかなか湧いてきません。
あの人がいたからこそ、毎日の営みに意味があり、働くことが「生活」そのものだった。
今は、何のために、誰のために、という問いが、ふと心に影を落とします。
それでも、何かを始めなければ。そう思う自分も、確かにここにいます。
それでも、やっぱり私の趣味は「コーヒーとコーヒーの仕事」。
この二つが、私の日常そのものです。
だからこそ、もう一度、自分の日常を取り戻すために、「コーヒーの仕事」だけでなくて「コーヒー」でも、何か新しいことを始めてみようと思っています。
最近、Vログというものが流行っているそうです。
動画で日々のことを記録し、誰かと共有する。
私も、コーヒーをテーマにしたVログに挑戦してみようかと考えています。
焙煎の音、豆の香り、抽出のひととき。
そんな日常の断片を、少しずつ切り取って、誰かと分かち合えたら——。
それが、今の私にとっての日常の再開になるかもしれないと考えたりしています。

