
妻を亡くしてからというもの、胸の奥にぽっかりと穴が空いたまま、時間だけが静かに流れていくようになった。
その穴は、ふとした瞬間に冷たい風が吹き抜けるようで、どれだけ日が経っても埋まる気配がない。
朝起きても、夜になっても、生活のどこかに彼女の気配が残っているのに、もう二度と声を聞くことはできないという現実だけが、重く沈んでいる。
「悲しい」「寂しい」という言葉では追いつかない感情が、日々の生活の隙間に入り込み、気づけばため息ばかりがこぼれている。
何かをしようと頭では思っても、体がついてこない。
気力が湧かず、手を伸ばす前に心が折れてしまう。
気づけば、ただぼんやりと窓の外を眺めている時間が増え、時計の針だけが淡々と進んでいく。
自分だけが取り残されているような、そんな感覚に包まれる日が続いている。
それでも、毎日まったく動かないわけではない。
和歌山城の周囲をゆっくり歩く2キロの散歩だけは、途切れず続けている。
歩き始めると、足の裏から伝わる地面の感触や、季節の匂い、城の石垣に落ちる光の具合が、少しだけ心を現実へ引き戻してくれる。
歩いている間だけは、胸のざわつきがほんの少し和らぎ、深呼吸が自然とできる気がする。
あとは、パソコンの前に座り、趣味であるコーヒーの記事を短い時間だけ書く。
文章を書いているときは、頭のどこかが「自分はまだ何かを生み出せる」と思い出すようで、わずかながら前へ進んでいる感覚がある。
けれど、その集中も長くは続かず、気づけばまた深い霧の中に戻ってしまう。
霧は濃く、静かで、出口が見えないまま時間だけが過ぎていく。そんな日々が続いている。
「このままではいけない」、そう思う気持ちは確かにある。
この状態から抜け出すには、やはり自分の原点の一つである“コーヒーの仕事”を再開するのが一番だと、頭では分かっている。
焙煎機の前に立ち、豆の色や香りに向き合う時間こそ、自分を支えてきたものだということも、よく分かっている。
けれど、心と体がその思いに追いついてこない。
気持ちが揺れ、足が止まり、再開へ向かう一歩がなかなか踏み出せない。やりたい気持ちは確かにあるのに、どこかでブレーキがかかってしまう。
そんな自分に戸惑いながら、また一日が静かに暮れていく。
妻の四十九日までには、どんな形であれコーヒーの仕事を再開したい。
その思いは、最初はかすかな願いのようなものだったが、日が経つにつれて、胸の奥でゆっくりと輪郭を持ちはじめている。
彼女がいなくなった現実は変わらないけれど、それでも自分の人生をもう一度動かすためには、長年続けてきた“コーヒーの仕事”に戻ることが必要だと、日に日に強く感じるようになった。
最低限、コーヒー豆を焙煎できれば、そこからまた歩き出せる。
焙煎機のスイッチを入れ、豆が色づき、香りが立ち上るあの瞬間に、自分の心も少しだけ温まることを知っている。
だからこそ、まずはそこから始めたい。大きな再開でなくてもいい。
小さな焙煎の一回でいい。それが、止まっていた時間を動かす最初の一歩になる。
「来週こそはコーヒー豆を焙煎しよう」
今この瞬間は、そう固く決意している。
もちろん、決意が揺らぐこともあるだろう。体が動かないこともあるだろう。
それでも、この思いを実行に移せたなら、今の精神的な不安定さも、ほんの少しは和らいでくれるかもしれない。
焙煎機の前に立つ自分を想像すると、心の奥に小さな灯りがともるような気がする。
小さな一歩でも、前へ進む一歩であることに変わりはない。
その一歩が、これからの自分を支える土台になっていくはずだと、静かに信じている。

