エカワ珈琲店の出来事

エカワ珈琲店の爺さんと婆さんの日常と仕事の出来事、それと備忘録・雑記帳。

寂しくて寂しくてやりきれない

妻が旅立ってから、時間の流れがこれほど重く、ゆっくりと進むものだとは思わなかった。

時計の針は確かに動いているはずなのに、自分の中だけはどこか止まったままのようで、朝が来ても昨日の続きのまま心が動かない日が続いた。

最初の二週間ほどは、ただ「悲しくて悲しくてやりきれない」という思いに押しつぶされていた。

 

胸の奥に石を抱えたような重さがあり、ふとした瞬間に涙がこぼれ、何をしていても妻の姿が浮かんでしまう。

悲しみは波のように寄せては返し、気を抜くとすぐに足元をさらっていった。

その悲しみは、やがて「悲しくて寂しくてやりきれない」へと姿を変え、少しずつ質を変えながら私の中に居座り続けた。

 

そして今──1か月と一週間が過ぎた頃には、「寂しくて寂しくてやりきれない」という感情が、静かな湖の底に沈むように、深く、動かず、胸の奥に広がっている。

悲しみの鋭さは和らいだものの、代わりに、誰もいない部屋の空気がやけに冷たく感じられるようになった。

 

先月末、私は自分の病気の治療のため三日間入院した。

それまで一日三〜四時間しか眠れない日々が続いていたのに、四人部屋で過ごしたその三日間は、驚くほど深く眠れた。

人の気配というものが、こんなにも心を支えてくれるのかと、あらためて思い知らされた。

 

退院して、誰もいない家に戻ると、静けさが一気に押し寄せてくる。

「寂しくて寂しくてやりきれない」という感情は、夜になるととくに濃くなる。

昨晩から今朝にかけては、また眠りが浅かった。

入院前ほどではないにせよ、ひとりでいる時間が長いほど、寂しさは形を変えて襲ってくる。

 

思い返せば、去年の十二月二十五日に私が救急搬送され、その二日後の二十七日に妻が亡くなった。

悪い出来事が重なり、今年の一月は、ただひとり家にこもり、「独りぼっちになってしまった」という不安と寂しさの中で、亡き妻との思い出ばかりを抱きしめていた。

その間に、私の心は「悲しさ」から「寂しさ」へとゆっくり変わっていった。

 

悲しみには時間が効くのかもしれない。

しかし、寂しさには時間だけでは足りず、人とのつながりや社会との接点が必要なのだろう。

入院中にぐっすり眠れたのも、きっとその証なのだと思う。

 

私の趣味であり、生き甲斐でもあるのは、三十年以上続けてきた「コーヒーの仕事」だ。

妻と二人で営んできた自家焙煎コーヒー豆の小さな店。

亡き妻の四十九日が来る二月の半ばまでには、どんな形であれ、店を再開したいと考えている。

「コーヒー」で妻を送りたい──そんな思いが、胸の奥で静かに灯っている。

 

とはいえ、私は今も療養中で病気の治療中、以前のようには働けない。

だからこそ、無理のない範囲で、不定期に店を開けるという形で、そっと再出発しようと思っている。

寂しさはまだ深い。

けれど、焙煎機の前に立ち、豆の香りに包まれたとき、妻と歩んだ三十年がそっと背中を押してくれる気がする。

その小さな一歩が、これからの私を支えてくれるのかもしれない。