エカワ珈琲店の出来事

エカワ珈琲店の爺さんと婆さんの日常と仕事の出来事、それと備忘録・雑記帳。

「運」を呼び込みたいコーヒー豆自家焙煎店

妻の体調は、まるで季節の移ろいのように、少しずつ、しかし確実に変わっていった。

最初は「お腹が痛い、お腹が痛い」と言っていたのが、やがて通院が日常になり、今では介護なしでは暮らせないほどになってしまった。

そんな妻の変化を見守りながら、ぼく自身(エカワ珈琲店のオーナー)もまた、気づかぬうちに体力が落ちていた。

朝の開店準備が少しずつ億劫になり、重い豆袋を持ち上げるたびに、かつての自分との違いを痛感するようになった。

 

それでも、コーヒーの香りは好きだった。

焙煎機の前に立ち、豆がはぜる音を聞くと、心の奥がふっと温かくなる。

あの頃は、豆の一粒一粒に命が宿っているように感じていた。

どんな風味に仕上げようか、どんなお客さんに届けようかと、毎日が小さな冒険の連続だった。

けれど、いつの間にか、そんな情熱にも翳りが差していた。

 

「まあ、ほどほどでいいか」「無理をしなくても、年金でなんとかなるし」——そんな言葉が、心の中に居座るようになった。

それは決して間違いではない。むしろ、年齢や状況を考えれば、自然なことかもしれない。

でも、そうやって自分に言い聞かせるたびに、胸の奥で静かに燃えていた火が、少しずつ、少しずつ小さくなっていくのを感じていた。

 

2025年、妻の介護が本格的に始まった。

身体障害者手帳は1級、介護保険では要介護5。

日常のほとんどを誰かの手助けなしには過ごせない状態になり、ぼくの生活も、商売も、大きく形を変えざるを得なかった。

朝は妻の着替えと食事の支度から始まり、日中も目を離せない時間が増えた。

焙煎のタイミングを見計らいながら、合間に介助をし、通販や接客も最小限に抑えるようになった。

 

かつては「どうすればもっと美味しい一杯を届けられるか」と考えていた時間が、「今日は無事に一日を終えられるだろうか」という不安にすり替わっていった。

収入が減るのは当然のことだった。けれど、それを責める気にはなれなかった。

むしろ、「今は仕方がない」「年金もあるし、なんとかなる」と自分に言い聞かせていた。

そうやって、日々をやり過ごすことに慣れていった。

 

そんなある日、10月(2025年)のことだった。

店の電気設備を少し整えようと頼んでいたコンセントの増設工事。

その請求書が届いたとき、目を疑った。思っていたよりもはるかに高額で、手が震えた。

けれど、それ以上に心を揺さぶられたのは、その金額そのものではなく、「なぜ、こんなことになったのか」という思いだった。

 

「もしかして、ぼくがあまりにも消極的だったから、運に見放されてしまったのかもしれない」——そんな考えが、ふと頭をよぎった。

これまで、何かと「仕方がない」と言い訳をして、目の前のことに真正面から向き合ってこなかった。

その姿勢が、知らず知らずのうちに、エカワ家とエカワ珈琲店の空気を重くし、運の流れをせき止めていたのではないか。そんな気がしてならなかった。

 

運というのは、ただじっと待っていても、向こうからやって来てくれるものではないのかもしれない。

焙煎機の前で豆を見つめるときのように、心を込めて、手間を惜しまず、丁寧に向き合ってこそ、ようやくこちらを振り向いてくれるものなのだろう。

だから、ぼくは決めた。

これからは、できるだけ積極的に商売をしてみよう。

 

たとえ体力が落ちていても、時間が限られていても、できる範囲で、できることを、心を込めてやってみよう。

そうすれば、また少しずつ、あの頃のように、エカワ家とエカワ珈琲店に光が差し込んでくるかもしれない。

運も、きっとその光に誘われて、ふたたび僕たちのもとを訪れてくれるはずだと、そう信じてみたくなった。

 

妻の介護があるから、できることは限られている。

以前のように朝から晩まで働き詰めというわけにはいかないし、急な体調の変化に備えて、いつでも動けるようにしておかなければならない。

焙煎の時間も、接客の時間も、すべてが以前より短く、慎重になった。

けれど、だからといって、すべてを諦める必要はない。

むしろ、限られた時間と体力の中で、何ができるかを考えることが、今のぼくにとっての「商売」なのだと思うようになった。

 

大きなことはできなくても、心を込めた自家焙煎コーヒー豆(クラフトコーヒー)を、目の前のお客さんに丁寧に届けることはできる。

派手な宣伝はできなくても、長年通ってくださる常連さんとの会話の中に、信頼を育むことはできる。

消極的では「運」が逃げて行く。積極的なら、「運」がふと立ち寄ってくれるかもしれない。そんな気持ちで、今日もぼくは店の扉を開ける。

少しだけ背筋を伸ばして、少しだけ笑顔を添えて。