エカワ珈琲店の出来事

年老いた珈琲豆焙煎屋の日常と仕事の出来事、それと備忘録・雑記帳。

ある日突然、我が家にテレビがやって来た

昭和44年(1969年)の秋、トワ・エ・モアが歌う「ある日突然」がヒットしていました。「ある日突然、二人黙るの・・・」で始まるこの歌は、友達から恋人同士にある日突然変わった瞬間の物語です。

それと同じタイプの「ある日突然」が、その11年前、昭和33年(1958年)の春、我が家に訪れていました。「ある日突然」、小学1年生になったばかりの少年の家に「テレビがやって来た」わけです。

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(Wikipedia/テレビ受像機から引用しています)

 

「我が家にテレビやって来た」、団塊の世代とそれに連なる世代なら誰でも経験したことのある出来事です。

エカワ珈琲店の店主が「テレビが我が家にやって来た」のを経験したのは、小学校に入学したばかりの昭和33年(1958年)春のことで、その頃、それほど普及していなかったテレビ受像機が、ある日突然我が家にやって来たのを覚えています。 

我が家というより、母親の営む住居兼店舗型の喫茶店にというほうが正しいのかもしれません。

 

NHKの朝ドラ「まんぷく」に登場する立花萬平のモデルとされているのが、日清チキンラーメンの生みの親安藤百福さんです。

彼が理事長をしていた信用組合が破産して、池田市の自宅の庭に建てた小屋で試行錯誤して開発したチキンラーメンが登場して来たのが昭和33年の夏(8月)でした。

チキンラーメンは瞬く間に、その頃、誕生し始めていた大衆に受け入れられて、チキンラーメンの類似商品も多数出回っていたのを記憶しています。

もちろん、「お湯をかけて3分(or2分)」のテレビコマーシャルは覚えています。チキンラーメンは、普及期にあったテレビメディアを最大限に利用して成功した商品だったのかもしれません。

 

昭和33年当時のテレビ受像機は、安くなったと言っても1台6万円くらいするわけですから、まだまだ高額で貴重な物でした。しかし、ある程度の収入がある中産階級の家庭ならテレビを所有できるようになっていました。

普通のサラリーマンの平均月収が3万円くらいでしたから、普通のサラリーマンではテレビ受像機を購入するのは、ちょっと難しかったのかもれません。

 

 我が家(エカワ珈琲店の店主の家庭)は、母親の営む喫茶店商売が繁盛していた俄か小成金ですから、格式の高いお金持ちの家庭と違って開放的な雰囲気がありました。

 「我が家にテレビがやって来た」その日から、夜は、近所の人たちでごった返して、昼間は、喫茶店にテレビを見にくるお客さんでごった返していました。

それから数か月後、我が家は、店舗部分に1台、自宅部分に1台と、計2台のテレビ受像機を所有していました。 

 

テレビの普及は、非常に早いスピードで進み、「ある日突然、テレビが我が家にやって来て」から、1年か2年くらいで、近所の家すべてがテレビ受像機を所有していました。

昭和33年(1958年)頃の少年・少女たちは、テレビ映像を見たいからテレビ受像機を欲していたわけですが、現在の少年少女たちはユーチューブ映像を見たいからスマートフォンを欲しているのかもしれません。