若い頃、老人に対して相当な違和感を持っていて、「老いる」ということに恐怖心を抱いていました。
その小生が、2年前に「老人」の仲間入りをしています。
「老人」の仲間入りをして感じたのは、何も恐怖心を覚える必要が無かったということです。
何も恐れることが無いと感覚的にも理解できた段階で、和歌山市役所に出かけて行って、老人証明書(老人優待利用券)を発行してもらいました。
今年(2018年)の5月のことです。
20歳の若者であっても、66歳の高齢者であっても、これから起こるだろうことを心配する必要は無いと考えます。
心配なんかしていると、生きて行くのがしんどくなってしまいます。
何かが起これば、その何かに対応する方法を考えれば良いだけだと思います。
何歳になっても、何が起こっても、人間はそれに適応できるような気がします。
老化とは、新たな体験への入り口であって、新しい自分自身を創り出す一つのステップだと考えるのが正解だと思うようになっています。
66歳の高齢者ですが、毎日のようにスポーツジムで水泳を楽しんでいます。
10年前、20年前のような泳ぎ方は無理ですが、自分の体力の範囲内で水泳を楽しんでいます。
水泳以外でも、身体能力は低下しているのですが、それなりの運動は可能です。
10代、20代、30代という若い世代の人たちのように、縦横無尽にスマートフォンを駆使することは無理ですが、それなりにスマートフォンも使いこなせています。
年金だけでは食べて行けないので、働いて稼ぐ必要があります。
しかし、10年前、20年前と比べて身体機能は劣化しています。
ですから、仕事や暮らしにおける選択肢は狭くなっています。
60数年も生きて来て居るのですから、これまでに蓄積して来た経験・知識・技術をそれなりに持っています。
3人に1人が65歳以上の社会で暮らしているので、これらを駆使すれば、高齢者の零細生業パパママ店でも、十分に経営が成り立つ時代になっています。
それが、高齢化社会だと思っています。
若い頃には、身体的にも精神的にも、創造と情熱を追い求めることができました。
高齢になると、身体的・精神的な衰えを避けることはできません。
しかし、これまでの人生で蓄積して来た経験・知識・技術という恩恵を受けることはできます。
身体機能・精神機能が少しずつ衰えて行くのだとしても、それに適応して行けば、それなりに社会活動に参加し続けることができると考えています。
それが、幸せな老化だと考えている今日この頃です。
その昔、昭和の時代、経営が成り立っている「おじいさんとおばあさんの店」は、稀な存在だったよう気がします。
現在は高齢化社会ですから、「おじいさんとおばあさんの店」でも、それなりに経営が成り立ちます。
それが、高齢化社会だと考えています。
私事ですが、公的年金だけでは食べて行けません。
公租公課の支払いと加入している生命保険・損害保険の支払いで、受給している公的年金のほとんどが飛んで行きます。
しかし、若い頃のようにガムシャラに働けなくなって収入が減少いるので、公的年金の収入(魔法の財布)は大変ありがたい収入です。