「運命」という言葉を辞書で調べると、「超自然的な力に支配されて、人の上に訪れるめぐりあわせ。天命によって定められた人の運。」とあります。
そして、「過去の姿(原因)が決まっているのなら、未来の姿(結果)も決まっている」という考え方を『運命論』と言うのだそうです。
でも、そう言った類の『運命』というものが存在するのだとすると、「努力」というモノの意味が無くなってしまいます。
大学入試に合格するための勉強や司法試験に合格するための勉強をしなくても、合格する運命を持っている人が合格して、合格しない運命を持っている人は合格することが無いわけですから、勉強というモノに意味が無くなってしまうわけです。
だけど、現実の世界では、不正行為による合格は別として、「合格するための努力」が存在しなければ、「合格」することなど有り得ません。
「合格するための努力」をした人の中で、「合格」する人と「合格しない」人に分かれる段階で、『運・不運』が作用するわけですが、それは、偶然の出来事ということになります。
「合格するための努力」をしなかった人が、「偶然の出来事」に出会うことなど有り得ないはずです。
そこで、「運命」というモノについて、エカワ珈琲店は考えるわけです。
「元から定められている巡りあわせ」が『運命』なのだとしても、そのプログラムは書き換え不可能なモノでは無くて、時刻々と、状況に合わせて、修正に修正を重ねているプログラムなのだと・・・。